12月なのに・・・5月の気づき

 今年の5月の「ママちゃん先生」で書いたエッセイは、20余年前の5月に亡くした友人のお墓参りの話でした。5月と、そして彼女の誕生日である12月にいつもお参りをしています。今年も、一緒に行く友人と互いの近況を報告し、子どもたちが遊ぶのを眺め、そして「明日からまた仕事がんばろう」と手を振って別れました。
 
 もう10年以上前の12月のお参りの時、みるみる空が暗くなりいきなり雪がふりだしました。いつもは眼下にきらきら見える海も掻き消え、ほんの短時間だったけれど、まるで吹雪みたいでした。荒ぶる空は、何か彼女からのメッセージかもしれないと心配になりました。とても穏やかな彼女だったに。
でも、それ以降は、いつも小春日和。今年も、行き道で神戸の最後の紅葉を楽しみ、ひねもすのたりの海を山のてっぺんから眺めてきました。

丹波新聞 2019年5月19日掲載

5月の気づき


大学1年の5月、わたしは交通事故で大切な友人を亡くした。その時のことは、あまりの悲しみで断片的にしか思い出せない。それ以降、新緑の季節がすっかり苦手になってしまった。緑が生き生きと色づき、太陽の光が日増しに力強くなっていく5月。毎年わたしは自分だけが取り残されたような心持ちになった。日々成長する植物の生きるパワーに圧倒されて苦しくて悲しかった。キラキラした5月が嫌いだった。その気持ちは随分長い間続いた。

 もう20年来、彼女の命日と誕生日に友人とお墓参りをしている。そこは六甲山のてっぺんにあり、神戸を一望できる。初めは同級生3人だけだったが、今ではそれぞれが子連れの総勢10人だ。

数年前の5月、お墓から眼下の景色を見て思った。「ああ、なんて緑の美しいこと。世界がキラキラしている。」そして気づいた。「わたし、5月が嫌いじゃなくなっている。」

その理由はすぐにわかった。次女が5月生まれなのだ。そんな単純な話だった。

死よりも圧倒的に生のパワーは強い。それでいいのだと思った。亡くなった人を思い出しても悲しい気持ちにならないことと、忘れることとは全然違う。彼女のおかげで毎年決まった時期に友人と息災を確かめ、子どもたちの成長を知ることができる。そこの彼女の存在を感じ、彼女に感謝している。